イエロ―・ドロップスのむふふな独り言

佐東諒一・サヒガシ リョウイチ(時にはJUNPEI とも呼ばれてる。)日々失われていく記憶力を補う為、
支離滅裂な文章をリハビリがてら、ダラダラと書いてます。

■イエ・ドロHP
http://yellow-drops.jimdo.com/

■YouTubeにてイエロ―・ドロップスPV配信中
http://www.youtube.com/watch?

川中美幸プロデュース
Barまいどおおきに×おぼんろ演劇公演
『Black Shooting Star』
〜二度と来たくなくなる、最悪のBar〜
ぜひ、一度いらしてください。
素晴らしく悪趣味なショーを、残酷なほどの至近距離でご覧にいれます。
脚本・演出 末原拓馬
BY:佐東諒一・高橋倫平・藤井としもり・若林めぐみ・末原拓馬
公演日20110年8月20日






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ラン丸の夢を見た
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     ラン丸の夢を見た。
     
    どうやらラン丸は私の都合で動物園の様なペットショップに預けられているらしい。
    何年かぶりに会いに来た私は、その動物園の様なペットショップの中を必死になって探す。
    園内の隅々を捜し回ったがラン丸はいなかった。

    係りの方に声をかける。
    「五年前、ここにラン丸という猫を預けたが何処にもいません。
    老猫だったから、違う場所に移されているのでしょうか?」
    係りの方はパソコンの前に座ると検索を始めた。
    「残念ながら、ラン丸という猫は登録されていません。
    お客様は、五年以上放置されていますので、
    登録は抹消、どなたかに引き取られたかと思われます。」
    「そんなバカな。」
    食い下がるが「契約書に書かれています。」と返された。
     
    途方にくれていると目が覚めた。
     
    しかしそれは実際に目が覚めたのか、夢の中で目が覚めた状況なのか、よくわからなかった。
    夢なのか、現実なのかワカラナイ感覚の中で、
    会えないことを悔やみラン丸に申し訳ないと感じていた。
    が、思い出した。
    ラン丸は二年前に私の目の前で老衰で死んだのだった。
    猫としては長生きな23年の人生、いや猫生だった。

    はっきりと目が覚めた私は、ラン丸を思い出し泣いた。
    切なくてなのか、哀しくてなのか、よくわからない気持ちだったが泣いた。
    成仏出来てないのか?とも思った。
    ただ会いに来てくれただけなのか?とも思った。

    忘れないように、iPhoneの明かりの中で、先ほど見た夢の内容を書こうとした。
    妻がどうしたの?と寝ぼけまなこながら心配そうに声をかけてくれる。
    「今、ラン丸の夢を見たんだ。忘れない内に書こうと思って。」

    ラン丸の夢を見た。
    どうやらラン丸は私の都合で、、、、。

    「只今の時間、午前6時丁度を、お知らせ致します。」
    | さひがし りょういち | 09:10 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
    小松爺さんの昭和16年―昭和20年終戦までの過ごし方。
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      帰省した際に、父親が古いアルバムを出して来た。
      それは俺が小学生の時、一度だけこっそり、祖父のタンスの中で見つけた戦時中のアルバムだった。あの当時はそれがギスケ爺さんが体験した戦時中のアルバムだったと思っていた。

      写真には大佐だの少佐だの勲章をつけた偉い方のような写真、戦車の写真、女性がピストルを構えている写真、フンドシ姿で泳いでいる若者の姿など、沢山の写真があった。
      ドキドキしながら写真を見たのを覚えている。
      ギスケ爺さんは満州に行っていたとも確かその時は聞いていた。

      そして30年ぶりにそのアルバムを目にしたわけだが、驚いた事に、このアルバムは、
      ギスケ爺さんのアルバムではなく、父親の実の父(ギスケ爺さん祖母の再婚相手だった。)

      ようするに俺と血の繋がっている、小松爺さんのアルバムだという事を知った。
      このアルバムの中に2枚だけ、小松爺さん(と呼ぶには若くして亡くなってるわけだが)の写真があった。
      松爺さん。この人なんだと思うと、どうにか自分と似ている所を探してしまう。

      アルバムの中に小松爺さんの弟さんの写真もあった。
      この方は俺が20歳の頃に亡くなったのだが、この時は「勿来のおじさん」と呼んでいて、親しくさせて頂いたが小松爺さんの弟さんとは知らされてなかった。
      何せ、ギスケ爺さんが父親と血のつながらない関係だと知ったのは俺が24、5歳の頃、ギスケ爺さんの葬式の日だったからね。

      で、改めてアルバムを検証。
      アルバムの見出しに歩兵第七十四聯隊と書いてある。
      小松爺さんが配属された部隊の名称。
      写真の中には見出しが「朝鮮女」と書かれた女性の写真もある。
      戦争に行った先は、満州とあの当時聞かされていたが、違うのかもと思い

      ■「歩兵第74連隊」
      をネットに打ち込んでみる。

      1943年(昭和18年)5月 - 第19師団から第30師団に所属変更
      1944年(昭和19年) - フィリピンミンダナオ島へ移動
      1
      945年(昭和20年)8月 - 終戦」

      ■次に第19師団を調べてみる。

      1941年(昭和16年)7月、動員下令となるが直ぐには戦地へ行かず、
      羅南にて訓練を行っていた。なお、1943年(昭和18年)5月、師団隷下の歩兵第74連隊が新設の第30師団隷下に移る。
      1944年(昭和19年)12月から師団は第14方面軍隷下に移りフィリピンルソン島に渡りアメリカ軍と交戦する。山岳地帯で持久戦を行っている最中終戦を迎える。

      ■次に第30師団を調べる。

      1943年5月に新設された。1944年8月、南方に転用され第35軍に編入。フィリピンミンダナオ島守備を担当した。レイテ島の戦いに投入され大きな損害を受け、さらにミンダナオ島の戦いでの過酷な持久作戦を遂行し終戦を迎えた。

      ■次に第35軍を調べる。

      1944年(昭和19年)8月4日に編成され第14方面軍隷下におかれた。フィリピンミンダナオ島およびビサヤ諸島防衛を任務とし、当初は長期持久を作戦の目的としていた。1944年(昭和19年)10月20日のアメリカ軍レイテ島上陸と、それをうけての大本営によるレイテ決戦の決定にともないレイテ島の戦いを担任することとなった。制空権制海権を失い補給が途絶する中でその大部を失い、同年12月18日に大本営はレイテ島を放棄した。12月22日には第14方面軍より自戦自活を命ぜられた。これにより第35軍は、レイテ島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島などの各地で長期持久作戦に移行し、アメリカ軍への抵抗を続けた。それはまた物資の欠乏による飢餓との戦いをも意味した。

      上の資料から推測すると。

      昭和15年10月、私の父親の誕生日。
      その翌年の16年。小松爺さんに赤紙が来たのか?
      小松爺さんは1歳にもならない私の父親と祖母を残し軍人として、日本海を渡り、「羅南」今の北朝鮮に向かったらしい。

      「羅南区域
      (ラナムくいき)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市に属する区域。日本統治時代には第19師団が置かれ、軍都として知られた。軍事・行政の中心地であったため日本人居留者も多かった」

      アルバムの写真はたぶん、この「羅南」で訓練を受けていた2年間弱の様子だと思われる。
      地図で調べると海沿いの町。アルバムにも泳いでいる写真があるし「朝鮮女」と見出しが書かれた、写真があるのもうなずける。
      数枚、笑顔で写っている方もいて、緊迫感が感じない写真もある。

      和服姿の女性の写真もあるし、余興だろうか?ぬいぐるみ的なものを着て仮装している写真もある。この2年の生活は、小松爺さんにとってはまだ平和だったと思われる。

      しかし
      師団が南方はフィリピンに移動。

      昭和19年から昭和20年の終戦まで、もっとも過酷な激戦地区で戦っていた。
      レイテ島の戦い・ミンダナオの戦い。
      小松爺さんが所属していた
      「歩兵第74連隊」はミンダナオに配置され、レイテ島の戦い、ミンダナオの戦いに参戦したらしい。

      ミンダナオの戦い1945年3月10日―8月15日終戦
      小松爺さんの最後の戦い。
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%8A%E3%82%AA%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

      日本軍
      戦死・戦病死25,000超
      戦傷7,000
      アメリカ軍・ゲリラ
      戦死820
      戦傷2,880

      この数字を見ただけでも、どれだけ過酷だったか・・・。

      「ミンダナオ島中央部から北岸にかけては、日本側は第30師団が担当していた。第30師団は、迎撃部隊として歩兵第74連隊の2個大隊と工兵第30連隊などを南下させ、そのうち歩兵第74連隊第1大隊は、4月27日夜にカバカン付近でアメリカ軍第124歩兵連隊及び砲兵1個大隊と激しい遭遇戦を行った。日本軍が橋などを徹底的に破壊したため、アメリカ軍は重火器を迅速に前進させることができず、各地で歩兵同士の近接戦闘が発生した。特にマラマグ周辺では、5月7日に日本軍歩兵第74連隊第3大隊が森林を生かした待ち伏せ攻撃をかけて、112名を失いながらも、アメリカ軍にも戦死60名、負傷120名の損害を与えた[13]。その後も5月15日まで攻防が続き、アメリカ軍第124歩兵連隊だけで69人が戦死し、177人が負傷する損害を受けた」

      南北からの挟撃を受けた日本軍第30師団主力は、6月2日に東部のアグサン方面への転進を決断し、持久戦を図った。8月1日にアグサン川流域のワロエに到達したが、移動途中で多数の餓死者・病死者を生じた。しかも、ワロエ付近には、6月24日にアグサン川河口に上陸南下していた第155歩兵連隊の1個大隊が居り、ここでも日本軍は攻撃を受けることとなった。

      第30師団はワロエからさらに南東に進んだジョンソンで終戦を迎えた。
      第30師団全体での損害は終戦までに
      戦死2500人、病死2100人、不明5600人に達した。生存者は約3000人であった。

      この3000人の中に小松爺さんが含まれているのだが、
      昭和20年。爺さんは引き上げ船の中、もしくは当時、引き上げ港に指定されていた舞鶴で、酒を呑んで亡くなったとの事。


      一度だけ家族で小松爺さんのお墓を探しに行った事がある。
      父親の記憶をたどりやっと見つけた墓は、山際の日も差さないような場所にあった。
      長い棒が一本、土に刺さったというか、倒れかけていた、質素な墓だった。
      家族で倒れないように周りを土で埋めて真っすぐにした。

      棒(墓)の横に消えかけた文字を見つけた。
      「5歳 繁」と書かれていた。父親の名前だった。
      たぶん当時「喪主」になっていたんだと思う。

      先日、番組でフィリピンで戦争体験した方々のインタビュ―を見たばかりだった。
      この方達のように、俺の爺さんも、戦っていた・・・。

      今度、盆に帰る時には、小松爺さんの墓に行きたい。

      右が小松爺ちゃん。

      komatu





















      | さひがし りょういち | 02:14 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
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